指にはめる輪。ジュエリーというものとしての指輪。それは金でできていたりシルバーでできていたり、はたまたプラチナで作られているもの、それに宝石がついているもの。ジュエリーとは宝物のように、何かが宿っていて、権力と富の象徴にもなり、羨望の的でもあり何か物語の始まりでもある。
そして宝石は地球からの贈り物でもあり、人の心をひきつけたりあるときは心を変えてしまったり、人間を変えてしまう力まで持ち合わせていると。
ダイヤモンドのエンゲージリングを着けた花嫁の心は変わるでしょうか?
ジュエリーとはそうしたひとをとりこにもするし、変貌させるもの。
そういった伝統的な宝飾の世界から生まれたジュエリーは貴金属として価値あるものとして定まった評価も得てきた歴史があります。
ここへきて、そうした伝統の価値観に疑問を投げかけるデザイナーも出てきています。貴金属でなければジュエリーではないのかと。
コンテンポラリージュエリーと呼ばれる分野がそれです。
新進気鋭のジュエリーデザイナーたちは、もはや既製の価値観の上にあぐらをかいたジュエリーを作ることからはみ出しはじめたのです。紙でも繊維でも革でもガラスでも樹脂でもプラスチックでもアルミでもジュエリーを作ります。チタニウムでも真鍮でもジュエリーを作ります。既存の貴金属でなければならない殻をうちやぶってひたすらオリジナリティーを深く追求してきた結果なのです。
指輪の歴史は洋服の歴史でもあります。洋装になる前、日本では着物を着ていましたから、かんざしや櫛、帯留め、根付けなどのアクセサリーや刀の装飾はあれど、ネックレスやイヤリング、指輪の歴史が見当たらなかった時代があります。古墳の発掘された時代にあった魔除けと思われる勾玉と、現代の指輪との隔たりは大きな時間が流れます。文化芸術が花開いた安土桃山時代には、金というと金屏風や障壁画、金の漆器など工芸の分野にはたくさんみつかりますが、まるで金の大仏に金がまわされてしまってアクセサリーが作れなかったのかと思うほどゴールドジュエリー不在の時代があります。どんな人間でも、どのような少数民族でもアクセサリーは着けていたはずで、身を護る、相手を想う、祈る、願うを形にこめたはずです。なぜそれが阻まれたのか、憶測は無限に拡がります。金の茶室があって、金閣寺があって、なぜゴールドのジュエリーがなかったのでしょう。召しあげられてしまったか、禁じられていたのか。
こうしてみると、指輪が定着したのは坂本龍馬の登場したあたり、日本で草履から靴、ブーツを履き始めた頃にあたります。
宝玉という言葉があります。日本にはジュエリーというより宝物として正倉院が有名です。また、法隆寺にはタマムシを貼りつけた工芸品も収蔵されています。
古過ぎて肉眼では奈良で見ても確認はできないそうですが、実際に昆虫の羽が使われていました。貝の螺鈿は今でもありますが、玉虫の螺鈿というのは信じがたいですね。正倉院ではなく、法隆寺にあるというのも疑問なのですが、殺生を嫌う仏事に、いったいなぜ生き物である玉虫が使われたのでしょう?
それは枯葉や地面に近い場所の枝葉という言うなればゴミを食べて命を繋げてる美しい玉虫が仏のありかたに近いので縁起がいいと思われていたからということ。
日本文化と密接にかかわってきたのは、工芸との関わりです。手のひらサイズの小さな宝物になぜ心踊らされるのか、ひとはなぜ宝玉に惹きつけられるのでしょう。ダイヤモンドは金剛石にルビがふられてダイヤモンドと読ませていました。
日本の歴史にアクセサリーが見当たらないとされる時代、北海道の少数民族アイヌの歴史をみると、タマサイ(ネックレス)、ニンカリ(イヤリング)、レ久トンペ(チョーカー)などのアクセサリーや、ターバンのようなマタンプシ、刺繍のブレスレットのようなテクンペが使用されています。
指輪のサイズというのはこうも変わってしまうものか、いつも同じところに留まらず絶えずうつろいやすいのが人の世の常だと
あるけれど、ほんとうに指輪の号数、指のサイズが変わります。なぜか気温だけじゃなく、湿度も関係あって、みなが同じように今日はむくんでいていつもよりサイズがアップしているという日があります。
それが梅雨時。雨上がりの晴れ間の日です。
雨本降りではなく、からっと晴れた秋晴れでもない梅雨になぜか指輪がはいらない、指が太くなったとお嘆きのかたはい
チタン材を素手でべたべた触ると指紋など皮脂が付きます。この油膜が反射して茶色っぽく網膜に映るので、チタンが変色したように見えています。手袋などして、いっさい油膜がつかない状態ではそのような変色は起こりません。
油膜がついても超音波で落とせばまたもとに戻ります。
経年劣化による変質というのは純チタンにはありません。鉄さびのイメージでなにかチタンも茶色く変わると勘違いしているひとが多いようですが、実際には原因は表面に光の屈折率を変えるものが付着したために一時的に起こる現象と言えます。
薬事法とか医薬品の対面と通販との事案が取りざたされています。
通信販売だと危ないのではという不安が大前提にあった時代はもう終わりつつあり、対面よりも利便性という時代になるのだと思います。薬を買いに出かけられない人にも通販で買った薬が届くようになる時代がくるということです。
では海外通販はどうでしょう。逆に海外から日本のものを通販で買うのはどうなんでしょう?
日本ブランドという信頼性があって、注文を入れるとしても、その後不安になって細かいところまで話を詰めます。
それは対面販売となんら変わりないのだと思います。ジュエリーも結婚指輪も遠方からも注文できる時代なのだと思います。
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の素材にも金銀プラチナといろいろあるけれど、ガラスや皮、琥珀のネックレス、貝=パールのネックレスは知られていてもフェルトのネックレスをご存知でしょうか?
ガラスビーズだとか、アルミニウムだとかチタンのジュエリーというのも登場しているいま、フエルト=羊毛製のカラフルなネックレスが流行りなのだそうです。
頭のな
中の想像と実物は違うけれど、ぱっと見た印象と本質というのも一致しなかったりするのですから
実像というのがどういうものかはその時の受け取り方によっていつも変わっていくのだと思います、
そしてひとは思い込みというのがくせもので、実際のひとと頭のなかで描いた人物像の違いというのも大きいと思います。
そしてインターネットで探して出会った結婚指輪と、その実物を手にとるのも違うし、また使ってみたらもっと違う。
サプライズでもらうのもまた違うし、そこにはどんな光があたるかによっても雰囲気も感じ方もそれぞれです。
受け手側の心によっても違ってくるのですから、印象というのも実物というのも定まらないものなんだと思います。
指輪としてもっともシンプルなフォルム。まんまる。
真円とも言う。
ラインは1本で繋がれ、またそこに戻る、歪みのない美しいかたち、それが円であり、結婚の縁でもあると思います。
それはなんの変哲もない輪っかのかたちでもあり。和なのかもしれない。
いわゆる平打ちと呼ばれる指輪がシンプルを極めたリングと言えそうだけれども、これは、造り手によって、ここまでシンプルなリングだとかえって仕上げの表情、手の力加減でかなり個性が露呈する。シンプルだからこそ、メーカーのこだわりや、制作姿勢が浮き彫りになってくるリングと言えるかも知れない。
かたちがシンプル、フォルムに何のメッセージ性もないものを見たとき、ひとは、そのかたちより表面の質の方に目がいく。
ひところ世界中のアートを席巻したモノ派の現代美術のように。
日本料理でもそうかもしれない。素材自体の味を引き出すためにあえて、余計な手を入れない。
そうすることでその素材感が前面に押し出されることってあるのかもしれないし。